「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師

「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師

2016-11-28 14:44:06 | 白隠禅師

 11月20日に広島県福山市の神勝寺で開催された『白隠フォーラム in 神勝寺』に行ってきました。芳澤勝弘先生の❝白隠講談❞を拝聴するのは久しぶり。今回の会場となった神勝寺(臨済宗建仁寺派)は地元の常石造船㈱オーナー神原秀夫氏が建仁寺の益州宗進禅師を勧請開山に、1965年に建立したという比較的新しいお寺ながら、白隠禅画を200点余を収集し、常設展示館もあり。西日本における白隠禅画の一大拠点として注目されるお寺だそうです。

実はこのお寺、今年の夏にしずおか地酒研究会で催行した京都奈良酒造聖地巡礼の参加者で、福山のリゾートホテルで日本酒伝道に尽力されていたK氏から「福山の新しい観光資源」として聞いていたのです。福山といえば10年前に映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作で何度も通った思い出の地であり、完成したDVDを贈呈したとき、真っ先に称賛のメッセージをくださったのが福山の歴史博物館関係者でした。そんな何やら懐かしい思いと不思議な酒縁に導かれるように足が向いたのでした。

 

広い境内は❝禅と庭のミュージアム❞と銘打たれ、豊かな自然の中に伽藍、表千家不審庵を忠実に再現した茶室&書院、国際修行道場、アートパビリオンなどが点在し、一日では回り切れない広さ。今回は紅葉色に染まった参道をフォーラム会場の本堂まで軽くお散歩しただけでしたが、日を改めて、茶禅の仲間とじっくり訪れたいと思いました。詳しくはお寺のHP(こちら)を参照してください。

さて今回の白隠フォーラムは、健康科学大学の平尾真智子先生が大変ユニークな新説を発表されました。「健康」という二文字を、日本の文献上で初めて使ったのが白隠さんだった、というのです。我々が当たり前のように使うこの言葉が白隠さん発だったとは、ビックリ!と同時に、やっぱり!という思いがこみ上げてきました。

そもそも「健康」という言葉、中国では19世紀まで「康健」と表記され、「健康」は和製熟語だったそう。しかし平尾先生が日本史の一次史料(原本)のデータベースで検索しても引っかからず、古語辞典にも仏教用語辞典にも出てこない。健康科学大学の先生としては「健康」の語源をなんとしてでも突き止めたいと思うのは当然だったことでしょう。そこで、健康に関する記述が多いとされる白隠禅師の仮名法語や著作を丹念に調査されたところ、『於仁安佐美(おにあざみ)』『隻手音声』『辺鄙以知吾(へびいちご)』『三教一致の弁』『夜船閑話』『毒爪牙』『仮名葎』『さし藻草』に登場しており、健康には「ケンカウ」「けんこう」のルビが付けられていたそうです。

これら白隠さんの仮名法語(漢文ではなく仮名で書かれた平易な教え)には、「内観の秘法」「軟酥の法」など自律神経を整える呼吸法やイメージトレーニングに関する健康法が記されており、代表作『夜船閑話』は現代も読み継がれる一大ベストセラーです。書かれたのは1755年。かの良寛さんはじめ、国学者平田篤胤、剣術家白井亨、『病家須知』を著した町医者平野重誠なども『夜船閑話』を愛読したそうな。この頃から「健康」の二文字が普及し始めたようで、夜船閑話の大ヒットがこれを後押ししたんですね。

白隠さんがなぜ仏教の教えに健康法を記したかと言えば、白隠さん自身が修行のし過ぎで鬱病を患い、克服した経験があり、禅を説くもの、仁政を担うものには健康長寿が何より大切だと考えていたから。84年の生涯で全国を1万2千㎞歩いたとされ、晩年の74歳から亡くなる84歳まで10年間には92か寺を回って布教に努めたそうです。もっとも芳澤先生曰く「晩年はかなりのメタボ体型でほとんど輿移動だった」そうですが(苦笑)、日本人に健康長寿を尊ぶ概念と実践法を植え付けたのが白隠さんであるならば、超高齢化社会を迎える今、我々が学ぶことは余りあるほど多い・・・!そんな感動が胸にこみ上げてきました。

 

後半は芳澤先生が神勝寺がコレクションした白隠禅画の解説をしてくださいました。

今回印象に残ったのは、白隠さんが鍾馗(しょうき)を描いた理由。端午の節句の人形でもおなじみ鍾馗さんは、唐の時代に実在した人物で、科挙試験に落第して絶望の末自殺。その霊魂が玄宗皇帝の夢に現れた悪鬼を退治して皇帝の病を治したことから、鍾馗像が魔除けとして普及したとか。このエピソードをモチーフにした謡曲『鍾馗』では、

 

ありがたのおん事や、その君道を守らんの、その誓願のおん誓い、いかなるいわれなるらん。

鍾馗及第のみぎんにて、われと亡ぜし悪心を、ひるがえす一念、発起菩提心なるべし。

げにまことある誓いとて、国土をしづめ分きて、げに禁裏雲居の楼閣の、ここやかしこに遍満し、

或いは玉殿廊下の下、みはしのもとまでも、もとまでも、剣をひそめて、忍び忍びに、

求むれば案のごとく、鬼神は通力うせ、現われいづればたちまちに、づだづだに切り放して、

天に輝き地にあまねく、治まる国土となること、治まる国土となることも、げにありがたき誓いかな。

 

と謳われた。

白隠さんは、受験に失敗して世の中を恨んで自殺したであろう鍾馗が、怨念と執心を捨て、菩提心を起こして世の中を守っていこうとした誓願を禅画に込めたのです。鍾馗がどういう人物だったか、画賛の言葉が何を意味するのか、その背景を知らなければ、白隠さんが発したメッセージも正しく受け取れないんですね。禅画にはそのような深読みが必要なだけに、あらためて芳澤先生のような道案内役がほんとうに大事だと実感しました。

  「白隠展‐禅画に込めたメッセージ」2012年図録より『鍾馗』

神勝寺のような新しい寺院ならば、白隠禅画を現代スケールで保存し展示普及させるアレンジが可能だと思います。白隠さんが生涯を送った沼津で現状それが出来ていないのが地元県民として残念でたまりませんが、今後、こういう拠点が全国各地に生まれ、21世紀にふさわしい禅の教えと健康長寿の情報発信が展開されることを期待します。私自身、白隠さんを見習って全国各地を歩いて白隠ゆかりの地をめぐり、いつかガイド本のようなものが書けたらな、と願っています。

 

フォーラム終了後は懐かしの鞆の浦に宿を取り、ひとりブラ歩きを楽しみました。

 

 

10年前に比べ、案内看板が増え、観光地化が進んだような気もしますが、町のスケールは江戸時代と同じ。朝鮮通信使に「日東第一形勝」と絶賛された対潮楼福禅寺で、通信使の扁額に見入っていたら、係の女性に「書道がお好きなんですか?」と訊かれ、「故郷のお寺にも通信使の扁額がたくさんあるので」と応えたら、「どこのお寺ですか?一度訪ねてみたいです」と。「静岡清水の清見寺」というと「静岡はねぇ、いつも素通りするばかりで駅から降りたことがないですわ」と苦笑いされてしまいました。

家康が通信使を接待した大御所時代、静岡は日本の首都であり、白隠さんが活躍した時代、沼津は全国から禅僧が集結して町がパンクしそうになった・・・それもこれも歴史の彼方のほんの一時代の出来事で終わるんだろうかと、複雑な思いで帰路に着きました。

 

白隠さんは平尾先生曰く「その著作は多方面にわたり、自筆の文書は50種を数える。漢文体の語録、古典の講義や著語からなる提唱録、漢文体の自叙伝、和文体の「仮名法語」、俗謡風の説教などがあり、他に書簡、墨蹟、禅画などもあり、超人的ともいえる著作活動を行っている」人。きっと、白隠さんの時代にブログがあったら、日々むちゃくちゃ更新してたんでしょう。

とにもかくにも、書くことで人々の心を救おうとした白隠さんの行動は、自分のような時代違いの末端の物書きにも刺激を与えます。いま一度、言葉を伝える仕事に誠実であろうと感じさせてくれた旅でした。

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